川崎就学裁判とやまゆり園事件を考える院内集会

神奈川県の横浜地裁で開かれている2つの裁判を通し、「障害によって分け隔てられることなく共に生き共に学ぶ」ことを考える院内集会が開かれ、約90人が参加しました。舩後議員も集会冒頭から参加しました。

主催者から開会のあいさつの様子

(主催者から開会のあいさつ)

約90人が参加し、盛会だった集会の様子

(約90人が参加し、盛会だった集会の様子)

2つの裁判とは、

「川崎就学裁判」

相模原市の障害者施設「やまゆり園」で発生した障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)

です。

「川崎就学裁判」とは、重度障害があり、人工呼吸器を装着している少年(光菅和希さん)が、地元の市立小学校に就学を希望したのに、川崎市が合理的配慮を検討せず、「特別支援学校がふさわしい」として判断し、その判断に基づいて神奈川県が特別支援学校への修学を指定したのは、障害に基づく差別に当たるとして、市と県に撤回を求めている裁判です。

「和希君を支える会リーフレット」より

(「和希君を支える会リーフレット」より)

母悦子さんは裁判の第二回口頭弁論の意見陳述で、このように述べました。

「本人が望んでいる学校で、たくさんのお友達の中で一緒に勉強したい。お友達と一緒に色んな事を見たい、やってみたいという今も和希のあふれる気持ちを大切にしてあげたいです。子どもの成長は本当に待ってくれません。今は今しかなく、本当に大事な時期なんです」

インクルーシブ教育実現を目指す舩後議員にとっても、人工呼吸器を装着している当事者としても、重要な裁判ととらえ、注目している裁判です。

また、「やまゆり園事件」は、相模原市の障害者施設で、元職員が入所者を多数、殺傷した事件です。元職員は障害のある人への差別意識をもとに、意図的に殺害した、しようとしたことが明らかになっています。

くしくも、やまゆり園事件は3月16日、川崎就学裁判は3月18日に判決が言い渡されます。この2つの裁判に共通している問題を考えようと、集会が開かれたのです。

集会では、元参議院議員の堀利和さんがご挨拶されました。

元参議院議員堀利和さんのご挨拶

堀さんは「やまゆり園事件と川崎就学拒否をつなぐもの」という題でお話しされました。堀さんは、なぜ、同じ学校で学ぶことが大切かを、このようにお話しされます(一部を抜粋)。

障害児を特別支援学校に入れて、これは分離教育システムとなっています。なぜ入れるのか、賛成するのか。「障害児が普通学校、学級にいればかわいそうだ」と。「だから支援学校のほうがいい」と良心的に言っている。だけど、いじめはない、ときれいごとは言いません。だとしても、避けるのではなく、いじめにあえば、その障害児が友達同士なり、教員も含めなぜいじめにつながるかを解決することこそ、話し合うことこそが、本当の教育だと思います。避けることではないんです。そういういじめは確かにあるのです。しかし、いじめを真正面に、子ども同士で、教員を含め、解決していけば、就学問題もうまないし、やまゆり園事件も生まなかったのではないかと思います。

二つ目に、普通学校ではなくて養護学校なり特別支援学校がいいね、といったときに、「障害児の程度、特性にあった専門的な教育がいい」というのは、困ります。善意、いいことだと思い込んでいる人たちには、話しても通じないのです。専門性は必要です。特別な配慮も必要です。私のように視覚障害者の場合は、点字の読み書き、教科書が必要です。普通学級であれば、点字の教科書が当然必要です。こういう意味では配慮なり援助が必要です。だからと言って別の空間、場所でやるのは間違いであって、同じ場所で、同じ所で学ぶということが、非常に私は重要だと思っていまして、専門的ということがいいことのようにして分離する、分けるということは、私はよくないと思いますし、そこは物事の解決が違うと思っています。

こういう特別なニーズへの支援、配慮は、何回も言いますが、同じ場で一緒にやるということが重要で、「一緒がいいならなぜ分けた」という本のタイトルじゃないですが、やはり一緒から始まりますし、障害者の問題は、つくづく感じるのは知識だけでは、対峙、付き合いできないんです。難しいけど、直接人間関係として触れ合うことがないと、なかなか本当の意味で障害者の抱えている、あるいは付き合い方、時には堂々とけんかもできるような意味で、直接の人間関係を結ぶことが重要だろうと思っています。

その意味でも施設ということ、特別支援学校ということ、社会から地域から切り離されたような空間で、障害者・障害児を閉じ込めることは決して、本当の意味での障碍者問題の解決にはならないと思っています。

堀さんのあいさつの後は、光菅さんのご両親もご挨拶をされました。父親の伸治さんは

川崎市では呼吸器を付けているだけで特別扱いをしている。合理的配慮もしてもらえず、本人の意見も無視して就学拒絶をされています

と強く訴えました。

弁護団の方々や、会場参加者からの意見表明などがあり、集会の終わりに、舩後議員があいさつを行いました。

代読であいさつする舩後議員

(代読であいさつする舩後議員)

あいさつの全文を以下に記します。

こんにちは、参議院議員の舩後靖彦でございます。皆様、今日はお忙しい中、本集会に最後までご参加いただきまして誠にありがとうございました。

相模原津久井やまゆり園事件の公判で、検察は植松被告に死刑を求刑し、被告人は控訴しないことを表明しました。判決は来月16日に出る予定です。私はなぜこのような事件が起きてしまったのか、被告の動機やその社会的背景が明らかにされることを期待し、裁判の経過を注視してまいりました。

その中である記事を見て深い落胆を覚えました。そこには、「被告が障害者を殺害する計画を周囲に話した際、『半分くらいが笑ったので同意が得られたと思った』と述べた」とあったのです。

植松被告の殺害計画を聞いたほとんどの人は、悪い冗談と笑い飛ばしたのでしょう。そこで被告人の歪んだ障害者観に真剣に向き合い、障害者の立場に立って「考え直せ!」と実行を阻止しようとした人は多くはなかったのです。そしてその「周囲の人」の中に「やまゆり園の職員」もいたかもしれません。

私自身の施設入所体験から、また「やまゆり園の施設運営の在り方、施設という構造自体が植松被告に『重度障害者は不幸を生み出すだけ、生きていても仕方がない』という考えをする土壌になったのではないか」という指摘もあり、そのように感じました。

私はALSを発症してから8年半、療護施設で暮らしました。そこで体質に合わない栄養剤を胃瘻から注入され、下痢を繰り返すという身体的虐待、しかも保険請求できる栄養剤を自費で払わせられるという経済的虐待を受けました。また一部の職員からの暴言やネグレクトという精神的虐待も受けました。

ある時、普段は私に普通に接してくる介護士が、きっかけは忘れましたが、突然私を罵倒したのです。私は驚愕し、その時の彼のその勢いしか覚えていません。のちに、彼は私を罵倒したことを〝介護士仲間〟に自慢していたことを知りました。それを聞いた〝介護士仲間〟は、笑って喜んだとのことでした。

施設は、人間関係が複雑に入りまざった特殊な空間です。どの社会にも共通する道徳観は施設の職員仲間の間で通用するものであって、利用者である障害者は非仲間として扱われ、適用されないものなのです。

身体的・経済的・精神的虐待によって私を非仲間の扱いとした、かつて私が入居した療護施設も、津久井やまゆり園も、決して例外的にひどい施設ではないと思います。例外的でないからこそ問題なのです。

こうした問題を解決するには、誰も排除しない、例えて言えば〝障害者も健常者も円の内側にいる〟インクルーシブ社会の創生しかないと私は考えています。第2、第3の植松被告を出さないためにも。

そして、インクルーシブな社会は、小さな時から共に学び育つインクルーシブな保育・教育が土台にあってこそ創られると私は確信しております。

しかるに、やまゆり園事件の判決が出る2日後の3月18日、同じ横浜地裁で判決が出る、川崎の就学裁判の原告・和希君は、人工呼吸器を利用していることで、安全面を理由に普通学校への就学を拒否され、特別支援学校籍とされました。呼吸器を利用しているために一般の社会での活動が「安全でない」とするなら、私が議員活動をすることも「安全でない」ということになります。

障害者差別解消法の文部科学省対応指針では、「具体的場面や状況に応じた検討を行うことなく、抽象的に危険が想定されるなどの一般的・抽象的な理由に基づいて、各種機会の提供を拒否することは、適当ではない」と明確にあります。和希君の場合は本人や主治医の聞き取りもなく、普通学校で学ぶための合理的配慮の検討もなく、人工呼吸器を利用しているから安全が確保できない、と判断されたわけです。

このような川崎市教委の対応は、幼稚園で一緒に育った大勢の同世代の子どもたちと一緒に学びたいという和希君やご両親の純粋でもあり素朴な願いを踏みにじるものです。裁判までしなければこの願いがかなえられないというのは、あまりにもむごいことと私は考えています。しかもしかも申し上げるまでもなく、もう丸2年がたち、もうすぐ和希君は3年生になってしまいます。

この裁判は、和希君だけでなく、地域の学校で一緒に学ぶことを願いながら、「総合的判断」のもと、普通学校就学を拒否されている子どもたちのためにも、絶対勝たなければならない真に重要な裁判です。

加えて申し上げるなら、障害の重さや医療的ケアが必要なことで保育所・学校・職場・地位社会から分けられ、施設や病院という特別な場所で過ごさざるを得なくさせてきた結果が、やまゆり園での事件を起こしてしまった社会的土壌を育んできたと私は考えます。それゆえ、この社会を本当にインクルーシブなものに変えていくための、最重要な裁判ともいえると思います。

多くの人が、やまゆり園事件裁判とともに和希君の裁判の判決を注視していることをアピールしてまいりましょう。そして和希君の願いがこの4月、新学期からかなうことを祈念して、集会のおわりの挨拶とさせていただきます。

皆様、ともに頑張りましょう。

いずれの裁判も、非常に重要です。動向を注視していきたいと思います。

和希君ご家族と記念の撮影

(和希君ご家族と記念の撮影)